きっと私がここに何かを書くにあたって、読んで下さっている皆様はじめ殆どどなたも、「トランスジェンダーならではの視点」「当事者としてここがいいと思った/ここは違うと思った」みたいなことを期待してくださっていることと存じます。もちろん、そう読める部分もあるかも知れませんし、少しはそれを意識して書く部分もあるのかもしれませんが、ほとんどが実はそうではないと思います。悪しからず。
私が生まれ育ったのは、南米から来た人、その中でもとりわけ日系ブラジル人が多く住んでいる街です。ブラジルの公用語であるポルトガル語が街中の至る所にあり、バスのアナウンスがポルトガル語で流れたりもします。東京に来て、また色んな日本の都市に行くことが増えてから気付いたのですが、街の雰囲気が何となく日本であって日本で無いような、独特の雰囲気があるような気がするのです。そのためか、ブラジルの音楽や風景を聴いたり観たりすると、ブラジルはおろか南米自体に一度も行ったことがないのに、何となくとても懐かしい気持ちになります。
映画『私はヴァレンティナ』を観て最初に浮かんだのも、そんな郷愁のような気持ちでした。そして次には、ブラジルのことを何も知らなかったな、ということです。ブラジルの衣・食・住のこと、とりわけ食と住に関して、キッチンの広さや料理の仕方、家の造りなど、どんな暮らしをしているのかは、近くにいながら全然想像をしたこともなかったのです。また、両親の同意さえあれば出生届に記載された名前ではなく通称名で通うことができると、法で定められていることも初めて知りました。実は、私は日本ではどういう法律になっているのかよく知りません。私自身も高校の頃、ヴァレンティナと同じでトランスジェンダーであることをカミングアウトせずに通っていたのですが、幸いにも出生時の名前がジェンダーを問わず付けられる名前だったので、変える必要が無かったのです。でも、もし私が違う名前だったら更に悩むことが多かったのかと思うと、頭が痛くなってきます。このことは、作中ヴァレンティナが補習を受ける際に出欠を取るかどうかを気にしていたところでも、想像できます。
そんな風に、自分と重ね合わせたり(これは私がトランスジェンダーであるかどうかは関係なく、どんな作品でもそうやって観ることがありますよね。それと同じです。)想像したりしているうちに、観終わっていました。
日本ではネット上での誹謗中傷や無意識下の差別のようなものが多く、陰湿な差別や暴力が目立つのに対して、ブラジルではもっとダイレクトに差別意識が暴力に結び付いています。主人公が性的被害や暴力を受ける描写もあり、目を覆いたくなるような場面もたくさんありました。でも、主人公や周りにいる人々が、傷付きながらもそれを甘んじて受け入れたりせず、負けずに立ち向かい続けていく。だけどそのことが、従来のように、特別な、聖人君主のような美しい物語としてでは無く、全員が町の中にいる市井の人であり、その人々が各々、または一緒に自分達の人生と対峙していく物語になっていて、そこに私はとても勇気を貰えました。
物語の中で、トランスジェンダーがぶつかる様々な壁に言及しながらも、登場人物の誰もがそれを物語るためだけの装置でも、観客の涙を誘う為の道具でも、人間社会とは離れたところにいる何か別の次元の存在としてでも無く、魅力的で完璧でない人間であることが本当に嬉しかった。
本作は「トランスジェンダーの物語」という側面はあっても、それが全てでは無い、私たちみんなの為の物語だと感じました。主人公やその周りの人物、そして悪役までもが物語の中でちゃんと活躍して息づいている。その中に「トランスジェンダーの物語」があるのです。
ヴァレンティナが、通称名で学校に通う為に失踪した父親を補習で仲良くなった二人の友人、アマンダ、ジュリオと共に探すところは、大好きだった探偵ものの海外ドラマ「ヴェロニカ・マーズ」を観た時のようなワクワク感でした。アマンダがスマホをハッキングしたり、ちょっと現実離れしたところも最高です。そんな二人の友人も、それぞれゲイであることや、妊娠していることで悩みや辛さを抱えていて、それがどうなっていくかスピンオフが観たい!と思うくらい魅力的に描かれています。
また、ヴァレンティナの母親も、ただヴァレンティナを一人で支えている味方のような存在という描かれ方では無く、自分の人生があり悩みもあり、恋もする。ヴァレンティナとお互いに支え合って生きていることがちゃんと描写されています。主人公の物語が進んでいく隣で、ちゃんとそれぞれの登場人物の物語も進んでいきます。そして主人公も、そんな悩みを持ちながらも人生を謳歌する一人として描かれていくのです。
映画としては当然のことなのですが、トランスジェンダーを描いた物語で、かつポリティカル・コレクトネスを意識した実写のフィクション映画となると、そういった部分まで見所として語ることのできる作品は中々稀有ではないでしょうか。 もちろん、いうまでも無くこの映画はトランスジェンダーのブラジルにおける過酷な現実を描いたものです。そして学校や、それに限らず何かを学ぶ時にトランスジェンダーが当たる壁や、中途退学など、日本においても同じことが言える部分も沢山あると思います。だけどこの映画は、それを知るためだけのものじゃないと私は思います。
最初は「トランスジェンダーの物語」と意識して見ていたのもあって少し身構えていたのですが、気付くとこの物語にすっかり引き込まれて、食い入るように観ているうちに約90分があっという間に経っていました。そして登場人物みんなのことをもっと知りたいと思いました。これから観る人には身構えずに観て欲しいし、観終わった後もそういった問題提起と共にこの映画自体の魅力がもっと語られて欲しい。そう思っています。 VIVA VALENTINA!